為家(藤原定家の二男)と相続トラブル

為家(藤原定家の二男)と相続トラブル

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※枠内は「やまとうたblog」からの引用です。

定家の二男。母は内大臣藤原実宗の女。因子の同母弟。
子には為氏(二条家の祖)・為教(京極家の祖)・為相(冷泉家の祖)・為守、為子(九条道良室)などがいる。
宇都宮頼綱の女、阿仏尼を妻とした。
御子左家系図……(中略)

やがて歌壇で幅広く活躍し、寛喜元年(1229)の女御入内御屏風和歌、貞永元年(1232)の洞院摂政家百首に出詠するなどした。
仁治二年(1241)、定家の没後に御子左家を継ぎ、寛元元年(1243)の河合社歌合、宝治二年(1248)の後嵯峨院御歌合などで判者を務めた。

宝治二年七月、後嵯峨院より勅撰集の単独編纂を命じられ、建長三年(1251)、『続後撰集』として完成・奏覧。
正元元年(1259)には再び勅撰集単独撰進の院宣を受けたが、その後、鎌倉将軍宗尊親王の勢威を背景に葉室光俊(真観)らが介入し、最終的に光俊ほか四人が撰者に加えられた。

これを不快とした為家は選歌を放棄したとも伝えられる(六年後の文永二年、『続古今集』として奏覧)。
出家後も歌作は盛んで、正嘉元年(1257)に『卒爾百首』、弘長元年(1261)に『楚忽百首』『弘長百首』を詠んだ。

晩年は側室の阿仏尼(安嘉門院四条)を溺愛し、その子為相に細川荘を与える旨の文券を書いた。これが、後に為氏と為相との間で起こる遺産相続争いの原因となった。

途中は中略してしまい申し訳ありませんが、
この中に「文券」という言葉が出てきます。

【脚注】文券とは何か 〜中世における「遺言書」〜

「文券(もんけん)」とは、中世において財産の処分や権利関係を記した文書の総称で、
現代の法律用語でいえば 遺言書に極めて近い性質を持つものです。

当時は、現在のような民法や相続制度が整備されていませんでしたが、

・誰に
・どの財産を
・どのような意思で与えるのか

を文書として残すこと自体は、すでに社会的に広く行われていました。

つまり、「遺言によって相続を指定する」という発想そのものは、
現代だけのものではなく、すでに鎌倉時代には存在していたのです。


阿仏尼と遺産相続争い 〜なぜ争いは起きたのか〜

為家は晩年、側室であった阿仏尼を溺愛し、
その子である為相に対し、細川荘を与える旨の文券を残しました。

ここで問題となるのは、
正妻の子であり、家督を継ぐ立場にあった為氏との関係です。

現代の感覚で言えば、

・長年家を支え、正統な後継者と目されていた嫡出子
・父の晩年に特別な寵愛を受けた側室の子

この両者の利害が衝突する構図は、
現在の相続トラブルと驚くほどよく似ています。

為家としては、
「自分の意思で財産を分け与えた」つもりであっても、
残された側にとっては、

なぜ、その分け方なのか
なぜ、その時期なのか
なぜ、その説明がなかったのか

という不満が必ず生じます。

結果として、この文券がきっかけとなり、
為氏と為相の間で激しい遺産相続争いが起こりました。


遺言書作成で本当に難しいこと

この事例から分かるのは、
遺言書が存在していても、争いは起こり得るという事実です。

遺言書作成で本当に難しいのは、

「法律的に有効な遺言書を書くこと」
ではなく
「争いを生まない内容にすること」

ではないでしょうか。

遺言書は、単なる書類ではありません。
相続が発生した後、
相続人それぞれがどのように感じ、どのように行動するかまでを想定して作成する必要があります。

そのためには、

・法的知識
・書類作成の経験
・そして何より、実際の相続現場を知っていること

が欠かせません。

専門家へ依頼する際には、
資格の有無だけでなく、
どれだけ多くの相続の「その後」を見てきたかという実務経験にも目を向けることをお勧めします。

鎌倉時代の相続争いも、
令和の相続争いも、
本質は、驚くほど変わっていないのです。

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